価値なんてものは時代によっても、場所によっても、人によっても変わるものだよ

アローラ!イエロー(@inahime_poke)です。

ブログを続けてると「価値のあることを書かねば…」ってついつい謎の使命感にかられちゃうこと、ありませんかね。

最初は好きで書いてたはずなのに、いつの間にか「役立つことを書こう」ってなんとなく窮屈なブログ運営をしてるような人もちょいちょい見かけます。

かくいう自分もその1人。…だったんですが、もう「そんなこと、どうでもいいや〜」って考えるようになりました。

そもそも価値なんてね、移ろいやすいものなんですよ。まったく同一の事象や物事であっても、時代が違えば、場所が変われば、人が変われば、価値も変わります。

だから、別に公表した記事が「価値のないもの」だと受け取られてもいいや…って考えるようになりました。

三木清の「常識」論

常識は閉じた社会に属するものであるが故に、一つの社会における常識はしばしば他の社会における常識と異なっている。常識の通用性はそれぞれの社会に局限されているのが常である。「ピレネーのこちらでは真理であるものも、あちらでは誤謬である」、とパスカルはいった。
 
引用元:三木清『哲学入門』34頁、岩波新書、1940年。

※この本のタイトルに「入門」って書いてるけど、どう考えてもある程度の哲学がわかる人向けです。

つまり「日本では価値があるとみなされないものが、フランスでは価値があるとみなされる」ってこともザラにあるよってこと。「銀行の常識は、世間の非常識」とか言ったりもするよね。

コミュニティってのは、何かしら同質性のある人達の集合体なんだから、コミュニティが変わればその紐帯となっている常識が変わるのは当然のことなんですよ。

常識が違うということは価値が違うということであり、価値が違うということは何かに対する評価が固定的なものでないことを意味する。したがって価値というのは固定的なものではなく、却って、流動的なものであることを意味する*1

歴史学は自分を相対化させてくれる学問だ

未来のことなんて誰にもわかりません。だから、なにが役に立って、なにが役に立たないかなんて、わかりませんよ。

ぼくが大学生のころ専攻していたのは歴史学なので、その観点から話しますね。歴史学の分野といえば政治を思い浮かべる人も多いと思いますが、庶民の暮らしから見えてくるものもたくさんあるんですよ。むしろその観点からしか見えてこないものある。

たとえば「ロシア人は中世とピョートル大帝の出現以後でどのぐらい食べてるものが変わったか」とかが見えてきます。

その原因を遡っていけば「ああ、アルハンゲリスクだけでなく、不凍港のサンクト・ペテルブルクを手に入れたからだな」「ピョートルは西欧からいろんなものを取り入れたからだな」ってことがわかります。

さらに食べ物が港から内陸に入ってくるルートをみていると、伝播にもタイムラグが有ることがわかったりします。そこから商人の交易路をあぶり出すこともできますね。

とくに食べ物、習慣、言語、コミュニティなどの世俗の事柄を追ってると、ガチガチの政治オタクが見た歴史とは違った見え方になってくるんですよねー。

歴史学の分野ではこういうのを「アナール学派」ってよんだりします。日本語で読めるかんたんなものだったらブローデルの本とかがいいと思います。西洋史ゼミで卒論書いた自分が太鼓判おしときましょう。

…はい、閑話休題。とにかくそういう部分を見ていこうと思ったら、どうしたって庶民の暮らしがわかるような史料が必要です。普通の家の帳簿みたり、伝承を調べたりすることもある。

そんなの当時の人は「価値があるから残しとこう」なんて欠片ほども思ってなかったはずです。後世の人間が勝手に当時の遺物をみつけては「あーこれは価値あるわー」って判断してるだけ。

価値なんてね、時代によるんですよ。ぼくとしてはアニメ、マンガ、ラノベとかも十分アカデミックな「学問」としての地位を得られると思っています。京都精華大学はいち早く取り入れていますね。

いまこんなことを言ってると笑われるのは目に見えてるけど、まあ30年ぐらいしたら風向きは変わってると思いますよ。

後世になってようやく評価されたショーペンハウエル

簡潔、明快、辛辣。最強の文筆家でもあったショーペンハウエルは、同時代の人にまったく評価されませんでした。当時はむしろ圧倒的にヘーゲルのほうが人気があったそうです。

ぼくヘーゲルの『歴史哲学講義』ってやつを2回ぐらい読んだんだけど、あの人完全に頭の中お花畑としか思えませんでしたw

ショーペンハウエルは、死後に熱狂的なファンが現れて、ようやく地位を得たんだそう。それは本人の予言通りでもありました。

後世名声を博するものの多くは、同時代の者から迎えられないという憂目に会い、逆に今の世に迎えられるものの多くは、後世に無視されるということも、今述べた事情から見れば明らかである。
 
引用元:ショウペンハウエル『読書について』141頁、岩波文庫、1960年。

そもそも「同時代の人に喜んで迎え入れられない」ことを喜ぶべきかもしれません。それは偉大な思想家であるJ.S.ミルも同じようなことを言っていますね。

独創性は、独創性を持たない人間にとっては、何のありがたみも感じられないものである。それをもっていれば何の役に立つのか、彼らにはわからない。わかるはずがない。彼らにわかるようなものなら、それは独創性ではないからだ。  
引用元:J.S.ミル『自由論』(斉藤悦則訳)159頁、光文社古典新訳文庫、2012年。

人によっても受け取り方が違う

まったく同一の事象でも、人によって受け取り方が違ったりしますよね。

たとえばサービス残業、育休、雇用、憲法などなど枚挙にいとまがない。ある人にとって正しいと感じられることは、ある人にとってはひどく間違っていると感じられることだってザラにあります。

同級生の中でも、ご近所さん同士でも、身近な人ですらそんなもんです。そりゃ赤の他人と価値観が合わないこともあるよね。

最初卒論書くときに困惑したんだけど、歴史家によって、同一の出来事の評価が180度違うなんてことも、普通に見かける話ですw

クソリプ、クソコメに負るな

場所、時、人など、価値なんてものは本当に移ろいやすいもの。

だからブログやイラストなど、あなたの表現に対してケチを付けてくる人ってのは必ず一定数いると思います。そういうクソコメやクソリプなんてほっときましょう。

あなたは、あなたの思うとおりに書けばいい。アンチがいれば、それと同じぐらい、共感してくれる人も一定数います。

役立つかどうかは、受け手がそれぞれ勝手に判断することだから、あなたはあなたらしい表現で、あなたらしく書いてればいいとぼくは思います。

それが後世評価されるかもしれないし、ニッチなところでウケるかもしれない。いいじゃん、ブログなんて好きなこと書けばいいのよ!

きょうの ぼうけんは ここまで
イエローでした~

*1:この回りくどい書き方、三木清の文体を真似してみました!笑