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ペンと羽根と、ペンライト

バドミントン歴10年のイエローが、バドミントンに関する様々な情報を中心に発信するブログです。コーチの依頼も受け付けています。

万物は流転する。真に自明なものなどどこにもない。

ペン ペン-思索の果実

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万物は流転する

ある時点において当たり前だと思っていたことは、いともたやすく変化していってしまう。それは数年後かもしれないし、数百年後かも知れないし、数分後かもしれない。ともかく変化するのである。諸行無常。盛者必衰なのである。

形のあるものは変化する。校庭に書いたドッジボールのコートは翌日になると風のせいで少し消えてしまうし、数百年前につくられた銅像は酸性雨で溶けてしまう。大切な瞬間をおさめた写真は時とともに色褪せてことを免れない。そして人は老いていく。

形のないものだって変化する。人の記憶は時がたつに連れて曖昧になっていく。未開社会の面影を今日まで保っているのが人間である。その名残は何かというとジェンダーである。いまでもその価値体系は根強く残って入るものの、「男なら~」「女なら~」などは明治・大正の時代から考えるとずいぶんと変化したのではないかと思う。男女共働きの家庭が増え、大学進学率の変化などにも顕著な変化が見られる。平安時代の「女性」像と、平成の「女性」像が同じとは到底いえない。

不定であるように見えるのは、視点がミクロすぎる(スパンが短すぎる)から。短期的に見れば不動のものであっても、いつかは必ず変化する。

言葉、通信手段、諸概念、理論、規範、パラダイム、学校生活、人間関係、パートナー、アイドルグループのメンバー、統治形態、天皇制、国境線、バランス・オブ・パワーなど。この世に不定でないものなど存在しない。万物は流転する。

常識を振りかざす人

常識とは、ある共同体における経験の体系である。「こうすればうまくいきやすい」とか「この共同体ではこうするといい」とかの体系。それは過去の経験に基づいて形成される。常識というのは過去に根を持っている。

しかし万物は流転する。真に自明なものなどどこにもない。過去において正解だったものが、いま、あるいは今後、そのまま通用するなどという保証はどこにもない。いや、むしろそんなものは存在しない。

常識にも価値はある。すなわち、常識は常識であるがゆえに人々の行動様式の共通貨幣である、という1点においてのみ価値がある。

しかし、「常識」は依拠すべき対象でない。行動の指針とすべきものではない。常識というのは過去に根を持っているが、未来には根を持っていないのである。いまの常識が通用しなくなるタイミングが必ず来る。なぜなら万物は流転するから。

常識を振りかざし、常識に依拠する人間は一見すると「正論」を言っているようにみえる。しかしそういう人間の知的態度は「下の下」であると言わざるをえない。「そんなの常識だろ」という言葉を聞いた途端、私はその人のことを心のなかで蔑んでしまう。

私という人間

万物は流転する。したがって「私」という人間も不変の存在ではいられない。

誰かの言葉に対して「前と言ってることが違うではないか」と非難の言葉を浴びせることがある。しかし状況が変われば人の心も考えも変わる。

誰かの影響を受けることなんてザラにあるだろう。発言が「ブレる」のは、その人が1か所にとどまっていないことの証。50年前に現役を退いたバドミントンプレーヤーが今日の指導現場に呼び出されたら、驚嘆するに違いない。当時とは競技の性質がまるで別物である。

老いてなお、第一線を退いてなお、昔の自分をアップデートしなければならないのである。それができない人間に何かを語る資格はない。語ったとしてもその発言には化石のような価値しかない。

ケーススタディ:地球外知的生命体は存在する

宇宙人なんていない。そんなの当たり前。果たしてそうだろうか。

われわれには、地球から出る手段がほとんどないため、いままで外の世界など想定すらされていなかった。宇宙を旅する技術が未発達なのである。

しかしそれは、よく考えてみると昔の地球人と同じような状況に置かれていることがわかる。原始時代のヒトにとって、「世界」は身の回りが世界のすべてであったに違いない。

航海の技術を持っていない時代の人々にとっては、地球が球体であるということすらわかっていなかった。しかし航海の技術が確立され、手段が現れるや、大航海時代が幕を開けたのである。そして地球は球体であることが判明した。新大陸が「発見」されたのである。

観測できないものは、人間から「ないもの」として扱われる。知覚できないものを信じることは難しい。

そもそも「ないことを証明する」手段などない。ないことを反証するのは簡単だ(反例を1つ挙げればいいだけ)。しかし反証するものが出てこない限り、「ない」ことを証明することはできない。会社員時代には提出した資料に「絶対に間違いない?」と聞かれたけど、そんなん知らんわって話。おまえが確かめろバーカ。

たとえばぼくはいま闇の世界で戦っている。昨日も大きな戦いを終えてきたところだ。ぼくは勇敢にたたかった。あー疲れた。今この瞬間も、ぼくの仲間たちが闇の勢力の侵攻を阻止している。…え?嘘つけって?違うってどうやって証明するの?

地球外知的生命体だって同じこと。「存在しない」ということは証明できない。むしろ観測技術が未熟だからそう結論付けるしかない、というほうが自然であろう。観測技術が成熟して、1つでも実例を挙げることができれば「存在する」と反証されることになる。

実際、今年に入ってからNHKの何かの番組で目にした。学会ではすでに知的生命体が地球以外に存在するという前提で話をすすめているのだという。時代は変わりつつある。完全に時代の転換点となるのは、宇宙の観測技術が発達するか、地球外知的生命体の「黒船」的な存在が現れるときになるのだろう。

帰結

いまを楽しめ。

それがすべてだ。

なるほど未来のことをぼんやりとでも描いておくことは大切かもしれない。しかし必ず未来にはイレギュラーが起こる。人間が未来を予測することはできても予知することは不可能である。

未来のために我慢をする、未来のために負債を抱える、それが必要な時もあるかもしれないけれど、ほどほどにしておかねばイレギュラーに泣かされる。

非常識上等。常識に依拠してしか物事を考えられない人間は凡庸どまり。新たな挑戦こそ価値がある。挑戦には失敗がつきものだが、失敗は無価値ではない。何もしない人間よりも試行回数を増やして勝負する。整備された登山道をハイキングするのは趣味じゃない。自分で頂への道を探る方がよっぽどおもしろい。

そして懐古趣味はまことに結構だが、懐古主義はご勘弁願いたいものだ。

その目は常に先を見据えていたい。