情報の信頼性を確かめるために必要なことは何だと思いますか?

アローラ!イエロー(@inahime_poke)です。

WELQというキュレーションメディアの閉鎖に伴って、先日ぼくはこんなことを書きました。

こういうクソ情報が平然と飛び交ってるなかでは、あなた自身が、あなたの頭で情報の質を判断しなければなりません。他人任せにするな。自分で判断しろ。

引用元:一時閉鎖になったWELQのようなキュレーションメディアの内実を、契約ライターが語ろう

これに関して、上の記事ではぼくなりの判断基準を提示しなかったのですが、この記事で書きたいと思います。

読み手側に求められること

あなたは、日々様々な情報を受け取り、無意識のうちに情報を選別しています。このサイトの情報は役に立つなーとか、あの人の言ってることはいまいち信頼できないよなーとかね。では、「情報の信頼性」ってどうやって確かめるんでしょうか?

  • Googleの検索上位に来てるから信頼できる
  • 〇〇さんが書いてるから信頼できる
  • Wikipediaの情報は信頼できない

このように、最初から決めてかかるのは、あなたの知的怠慢です。あなたの中に、情報の信頼性を確かめる尺度をもっておかなければなりません。それがないからWELQみたいなメディアがでかい顔をするんですよ。

…というわけで、質問です。

情報の信頼性を確かめるために必要なことは何だと思いますか?

実はこれ、ぼくが受けた某国立大の、入試の面接で問われたことでした。あなたはどう考えますか?

みんながそうだと言ってれば正しい?

これは明らかな間違いですね。みんながそうだと言ってたのに実は違った、なんてことはよくあります。歴史上正しいと信じられてきた事柄は何度も覆されてきました(例:天動説)。今あるモノの考え方、価値観なんてものは相対的なものにすぎないんです。

あるいは推理小説を読んでみればわかると思います。探偵さんが「キミが犯人だね。なぜならキミが犯人だとみんなが言うからだ。」なーんて言ってたらどう思いますか?滑稽です。笑っちゃいますよね。しかし、とんでもないことにそれがまかり通っているんです。大半のキュレーションメディアをはじめとしたインターネット上に溢れる情報がまさにこれです。

>関連記事:一時閉鎖になったWELQのようなキュレーションメディアの内実を、契約ライターが語ろう

よく聞く答えとして「1つではなく複数の情報ソースを持つ」というのがありますが、これもあんまり答えになってません。だって複数の情報ソースを持つだけでは、「結局この中でどの情報を信頼するんですか?」という質問には答えられないでしょ。何か他に尺度があるはずです。

大学で4年間学んだぼくなりの答え

情報の信頼性を確かめるために必要なことは、「いつ、誰が、なにを元に、どんな観点から発した情報なのかを見定めること」です。

これは大学で卒論を書くときに研究室の先生にしつこく尋ねられたことでもあります。

>関連記事:大学で卒論に取り組んで心底良かったって思ったこと

いつ?

1つ目がこれ。

古くてもいいんです。その当時なりの観点で書かれたものであるとわかりさえすればいい。2010年に書かれたものなら、2011年以降の情報が盛り込まれていないことがちゃんとわかるでしょう。大事なのは、きちんと2010年に書かれたものだと明示されているかどうかです。

時代の価値観を反映したモノの書き方であれば、それだけで価値がある。たとえばマルクス・エンゲルス『共産党宣言』を読んで「よっしゃ俺は今からプロレタリア革命を起こすぞ!」って息巻く人はさすがにほとんどいないと思う。今日的な価値はもうないってことです。

それでも「ああ、昔から労働者を救おうとこれほど熱心になった人がいたんだな」ってことがわかります。そこから「あのおっちゃんが提起した問題は、結局解決したのか?」みたいに自分なりの思索が生まれれば、その本に価値はあります。これが歴史的価値。

ぼくは1980年代に書かれた百科事典をもってます。親が子供の頃に売られていたものです。30年後に読んだらもはや化石ですよw しかし、だからこそ貴重な資料になると確信しています。

それから、以下の一節はぼくが心酔し、熱狂的に愛するショーペンハウアーのものです。「新しいものほど役立つ」って思いがちだけど、意外とそうでもない。

最近の発言でありさえすれば、常により正しく、後から書かれたものならば、いかなるものでも前に書かれたものを改善しており、いかなる変更も必ず進歩であると信じることほど大きな誤りはない。思索的頭脳の持ち主、正しい判断の持ち主、真剣に事柄を問題にする人々、すべてこの種の人々は例外にすぎないのであって、うごめく虫類こそ、いわば世間を広く支配する法則となっている。このような連中となると、例外的な人々が熟慮の結果試みた発言をいつも素早く敏捷に改善しようとして、かってに改悪する。

引用元:ショウペンハウエル「著作と文体」『読書について』(斎藤忍随訳)30頁、岩波文庫、1960年。

誰が?

2つ目がこれ。

「誰が書いたのか」も大事ですね。「なにを言うか」も大事だけど、「それを言ったのが誰なのか」も大事です。

「誰が」という要素が大事なのは、「この人は普段なにをしてる人で、どんなことに興味を持っていて、過去にどんなことを言ってきた人?」ってのがわかるからです。「誰が?」がわかれば「どんな観点から?」もわかってきます。すると、その人の主張したい内容の傾向が大体わかってくるわけです。

つまり、フリーランスとして成功してるイケダハヤトさんのブログからは「会社員とかクソ!まだ東京で消耗してるの?」っていう論旨の記事が出てくるに決まってるんですよ。あの人が急に「会社員最高!フリーで働くとかありえないだろ!」とか言いはじめたらちょっとびっくりする。

ぼくは西洋史研究室で卒業論文を書きましたが、歴史学をやるにあたって誰もが読んでおくべきといわれる古典、E.H.カー『歴史とは何か』でもやはり、まず「歴史の研究をするならその事実を取り扱う歴史家をまず知るべきだ」という旨のことが言われています。

全体として、歴史家は、自分の好む事実を手に入れようとするものです。歴史とは解釈のことです。

引用元:E.H.カー『歴史とは何か』(清水幾太郎訳)29-30頁、岩波新書、1962年。

なにを元に?

3つ目がこれ。

ちゃんとした知的生産物なら出典の明示は必要です。あなたが伝えようとしてるその情報、どの本で、どの論文で、どのブログ記事で、言っていたんでしょうか?あるいはウワサ話ですか?

「私は、これを元にこの部分を書きましたよー」ってのをハッキリ示さなくてはいけません。それが「自分の書いたものに責任を持つ」ということだからです。

なんでそんなことをする必要があるのかというと、「いや、この資料からその推論は無理があるだろ」とか「本当にそういう意図で言ってたのか?」ってのを読者がアクセスできるようにしておかなければならないからです。出典が示されていない情報は、どこかの都市伝説やゴシップと区別できません。

しかし、多くのキュレーションメディアの記事にはここが欠落しています。試しに読んでみればいいですよ。この部分の記述はなにをもとに書かれたのだろう?と思っても大抵の場合それが全くわかりません。出典を示すのは、もはや義務と言ってもいい。Wikipediaですら、マシなものはちゃんと出典が明示されています。

どんな観点から?

4つ目がこれ。

「どんな観点」、というのは「どんな問題意識をもって」と言い換えてもいいでしょうね。すでに挙げた「誰が?」に付随する項目とも言えます。

たとえばマルクスの『共産党宣言』は「この本を書くことで労働者階級を救いたい!」って思ってたはずです。どんな問題意識で書かれたのかがわかれば、「なぜこの人はあんな主張をしたのだろうか?」という疑問に対して想像的理解ができます。

では、大半のキュレーションメディアの記事にそこまでの問題意識と志はあるでしょうか。ありませんよね。ぼくが大半のキュレーションメディアが大嫌いなのは、まさにこの点なのです。興味もない分野の記事を、ただ金稼ぎのためだけに書きなぐる。そんな情報をかき集めただけのキュレーションメディアに価値はない。

ここまでに挙げた4つの基準に照らしてみましょう。

  1. いつ?→毎日、時間に追われながら
  2. 誰が?→その分野に何の知識も関心もない人間が
  3. なにを元に?→検索の1ページ目に出てきた2次情報を元に(笑)
  4. どんな観点から→ただ金を稼ぐためだけで、問題意識ももたずに

そんな情報が信頼できるわけないんですよ。でもそんな情報がGoogleの検索の1ページめにわんさか出てきてる。Googleさんの質的評価は発展途上ってことですね。

ここまで踏まえて、ショーペンハウアーの一節を読んでみましょう。1850年ごろに書かれた彼の憤りは、2016年の日本でも依然として当てはまります。この一節に限らず、彼の指摘は今日の日本に生きる私にとって目を開かれる内容ばかりです。

執筆すべきテーマの素材を自分の頭脳から取り出す者だけが、読むに値する著作家である。ところが著作屋、教科書書き、凡庸な歴史家などは直接いろいろな本から取材する。このばあい材料はただちに本から執筆者の指へ素通りで、頭のなかで通行税を取られることすらも、検閲をうけることすらもない。まして加工をこうむることのないのはもちろんである。…(中略)…したがって、本から指へ式に新著をものする連中の饒舌には明白な意味が書けていることが多く、一体なにを考えているのかを理解しようと努めても、頭を悩ますだけで無駄に終わる。彼らは実際何一つ考えていないのである。だが彼らが写しとるその本がまた、ちょうどそれと同じ流儀で書かれていることもよくある。

引用元:ショウペンハウエル「著作と文体」『読書について』(斎藤忍随訳)29頁、岩波文庫、1960年。

ショーペンハウアーは明快、簡潔、そして辛辣。だから大好きなんです。

絶対と相対のあいだ

時代、場所、文化をこえて、いついかなる時でも通用するような(絶対的に正しい)情報はほとんどありません。わたしたちは「唯一の正解」がないような領域で日々情報を受け取り、そして発信しています。

しかし、それではどんな情報も等しく価値がないのかというとそうではありません(価値相対主義の否定)。発信する側としては、誠意を持って、もがきながら、「絶対」「相対」のあいだで、いまのあなたにとって「正しい」と思える情報を発信していかなければなりません(真理への愛)。それはいずれ陳腐化したり、時代にそぐわなくなるかもしれませんが、それでいいんです。このブログだって例外ではありません。

たとえばGoogle AdSenseの審査基準について書いたこの記事。2016年6月時点での情報を今でもそのまま掲載しています。随時アップデートする気もないので、この記事は徐々に時代遅れになっていくでしょう。しかし基本的には放置しておくつもりです。

古いものは古いままで残しておいて何が悪いのでしょう。大事なのは情報の価値を見定めるチカラです。学術論文を書くとき、とっくに古びた定説に言及することもあります。なぜそんなことをするのかというと「当時はこういう観点で論が展開されていた。今は覆されたけどね。」と言えさえすればいいわけですよ。それ自体、1つの研究史たりうる。

だから、情報の受け取り側はさっき言ったような「情報の価値を確かめる尺度」を用意しておかなければならないし、情報の発信側はその尺度にかなうような情報を発信しなければなりません。つまり、「いつ書いたの?」「これを書いたのは何者なの?誰が書いたの?」「なにを元に書いたの?」「どういう観点で書いたの?」ってのがちゃんとわかるようにしなければなりません。それさえわかれば、あとは読者がその発信内容の価値を判断すべきです。

前にも書いたことがありますが、このブログの記事は、学術論文のレベルとはいかずとも、大学の課題レポート程度のレベルには仕上げたいと思って書いています。「知的生産物の端くれ」程度のものではありたい。そういう考えのもと、当ブログ「ペンと羽根と、ペンライト」の記事は、原則として以下のことを守って書いています。

  1. いつ?
    記事のURL末尾を見れば投稿日が*1、記事の上部を見れば更新日が、それぞれわかるようになっています。

  2. 誰が?
    イエローというハンドルネームの人間が書いています(寄稿していただいた記事を除く)。実名ではなくハンドルネームを使って発信する理由はすでに書いたことがあります。

  3. なにを元に?
    主に自分の実体験をもとに書いています。調べた情報や引用は出典を明示します。

  4. どんな観点から?
    記事のテーマに応じ、読者の役に立ったり感情を動かせるように考えて、あるいは個人的な報告をするために、書いています。

情報を発信する人も、受け取る人も、ちょっと自分の知的態度を見直してみませんか?

そして、ぼくが出した「情報の価値を確かめるために必要なことは何だと思いますか?」に対する答えは、あくまでもぼくなりの答えにすぎません。アナタなりの答えは、なんですか?

きょうの ぼうけんは ここまで
イエローでした~
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*1:末尾がentry/2016/09/01/230329なら、2016年9月1日23時3分29秒が登校日である。