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大学で卒論に取り組んで心底良かったって思ったこと

そこそこのオタク、イエローです。

今日もトキワのもり(商用)からお送りします(

 

皆さん、卒論ってやりましたか?卒業論文って雑な言い方をすると学術論文の簡易版みたいなもの。卒業論文は知的生産物。その卒業論文に取り組んで、いますっごく身についてるなあって思ったことがある。端的に言えば、「自分と似たようなことをやってる人は絶対にいる」ってことと「オリジナルの作り方」を学べたことだと思ってる。

 

ブログだって知的生産物の端くれというか、「そっくりさん」ぐらいのものではあるから、卒論で得たものはブログ書くときにだって役に立っている。

情報の狩猟からはじめよう

僕は昔から情報をまとめるのが比較的好きだった。卒業論文を提出したときの、講評というか「主査の所見」ってのがが手元に残ってるんだけど、そこでは自分の卒論を以下のように評価してくれている。

少なくとも日本での先行研究を広く狩猟して整理している点は評価できる。

…あ、いや、西洋史研究なのに邦語文献ばっかり読んでてごめんなさい。

そうなんです!僕は情報まとめるのが昔から好きだった!かもしれない!(はっきりしろ

自分は10冊の本をサーッと流し読みするよりも、1冊の本をじっくり読みたいタイプなので、何かあったときに「そういえばあの本にこんなこと書いてたよなー」ってのがわりとすぐ浮かぶ。

 

情報のまとめが大事だってのは卒論でも、他の事柄でも同じだと思う。それは学知*1の領域において、あることを「知る」という営みならばすべて同じことだ。

 

先人の功績(先行研究)を参考することによって、次に自分が読み進めるべきもの(参考文献)が見つけられる。それを自分で読んでみると、その人とは違った視点からものが読める。それを繰り返すことで、芋づる式に参考にすべきものが見つかっていく。

 

単なる情報まとめに何の意味があるんだろうか?と思うかもしれないけど、ちゃんと意味はある。「他の人がやっていないこと」をやるためには「今まで他の人がやってきたこと」を知っておかなければならない。じゃないと「これは俺のオリジナルだ!(ドヤ」って言ってたとしても、それより前に同じことをやってる人がいたら意味なくなる。過去の積み上げの上にしかオリジナルは生まれえない。

 

情報を狩猟してこそ、見えてくるものがある 

何か知りたいことがあったとする。まずは情報をまとめてみよう。自分と似たような問題関心を持った人や、自分と似たようなテーマに取り組んだ人が絶対にいる。僕は卒論のテーマを「都市サンクト・ペテルブルクの建設と発展」というテーマにした。「日本でロシアの都市論なんかやってる人いてんのかよwwww」って感じだったけど、なんだかんだ言っていてるもんです。びっくりすることにね。

 

そして、もし誰もその問題に取り組んでいなければ超ラッキー。自分がその領域の第一人者になれる。迷わずやりましょう。

 

他の人とやってることが被ったらどうするの? 

「誰かが自分と同じテーマに取り組んでいる」と言うと、じゃあ自分がそれを今さらやる意味があるのか?って疑問が湧いてくる人も多いはず。実際、自分もいまのブログやり始めたとき自問した。自分ごときが何かを書くことに意味があるんだろうか?情報過多の現代において、凡庸なブロガーが1人生まれて何の意味があるんだろうか?と。

 

「似ている」けれど「同じ」ではない

誰かが似たことをやっていても、やっぱり同じ。迷わずやりましょう。

  • そのテーマに興味を持った理由
  • その人が持ってる問題関心
  • 問題へのアプローチの仕方

この辺のことぜーんぶ、人によって違う。似ていることはあっても、全く同じなんてことはありえない。人の数だけ個性があるように、人の数だけ問題関心がある。同じ史料・資料に基づいても、違う結論が出ることだって十分にありうる。

 

もう1つ。同じテーマで似たようなことをやっており、十分にそのテーマに関することが言い尽くされたように見えていても、それは気のせい。言ってみれば、先人の功績は対象に一面からライトを照射したにすぎないのであって、自分が別の一面から対象に光を当てればいい。自分が違う角度からライトを照射できるなら、自分がやる意味は大いにある。胸を張っていい。

 

また、そもそも時が流れる以上、「あるテーマが十分に言い尽くされる」なんてことはありえない。時とともに人の問題関心は移り変わるわけだから、同じ人が同じ問題を扱ったとしても、それが20歳の時なのか50歳のときなのかで問題の取り扱い方が変わってくることも十分にあり得る。だから今の問題関心に基づいて今書くべき。

 

「自分が今書くことは意味がある」というのはそういうこと。いまの問題意識は、いまこそ言語化させておくべし。結晶化させておくべし。何か自分のオリジナル要素が出せるはず。ショーペンハウアーが指摘したような内容を経験したことがある人は、なおさらいま書くべし。僕の場合、そんな経験ばっかり。

心に思想をいだいていることと、胸に恋人をいだいていることは同じようなものである。我々は感激興奮のあまり、この思想を忘れることは決してあるまい、この恋人がつれなくなることはありえないと考える。しかし去る者は日々に疎しである。もっとも美しい思想でも、書きとどめておかなければ完全に忘れられて再現不能となるおそれがあり、最愛の恋人も結婚によってつなぎとめておかなければ、我々を避けてゆくえも知れず遠ざかる危険がある。

ショウペンハウエル「思索」『読書について』21頁、岩波文庫、1960年(文字加工は引用者による)。

 

意識低いプロレタリアな僕は、常に仕事中でも手帳を持ってる。仕事のメモをしているふりをしながら思ったことを書き溜めてたりするのはここだけの話。ちょくちょくそういうのがブログネタになっていたりするw 

 

似たようなところで言えば、中学校や高校の国語(現代文)でお馴染み、外山滋比古さんの『思考の整理学』という本でもこのことを指摘されている。外山さんは「人はものを忘れるものだ」という前提に立って、そこから話を展開していく。「忘れたくないほど重要に思われて、でもどうしても忘れちゃう」みたいなものをどうやってアーカイブ化するか。そのノウハウが書かれている*2。「ショーペンハウアーはちょっと…」って人にはこっちがオススメ。 

全然領域の違うところで言うと、ClariSのCLICKなんかも同じことを言ってる。「時の砂が覆い隠」すって表現、結構好きです(*´艸`*) …趣味ネタぶっこみたかっただけですがそれが何か?(

あぁ こんなにも 大切な想いも
時の砂が 覆い隠して 曖昧にしてしまうけれど
(中略)
きっと みんな大事なこと 少しずつ忘れていくから
君との思い出は 僅かだけでも託させてよ
引用元:ClariS「CLICK」(※作詞:kzさん)

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情報の狩猟が終わったら次にすべきこと

ここまでは、情報をまとめてみようってことを話した。情報をまとめると、必ずどこかで不満な点が見つかるはずだ。

  • そのデータからその結論はおかしいんじゃねえの!?(強引な推論など)
  • この人とは問題に取り組む動機が違いすぎた。(ライトの照射角度の違い)
  • ここ曖昧すぎて説得力ないんだが?(もっと掘り下げる余地がある)
  • ここを知りたかったのにサラッと流されただけで終わってるやん!(もっと掘り下げるry)

その不満点を解消すれば、それがあなたの功績。そこにこそ、あなたの取り組む意味がある。

 

ほら、Googleで検索してても十分な情報が出てこないことってあるでしょ?

例えば、Google AdSenseの審査基準について、ネット上に溢れる情報がいかにいい加減だったかというのを僕はつい先日経験したばかり。

 

例えばClariSのライブについて知りたい!ライブレポないかな!って思ってもレポートがなかったりする。で、自分がそのテーマで書いてみたらいまGoogleとYahoo!の検索で検索結果1ページ目の上から2番目に表示されるようになった。

 

そんな感じでいろんなこと書いてると、なんだかんだでいま毎日200人ぐらいが読んでくれるようになってます。これってすごいことじゃないですか?毎月10万PVいってるような上級ブロガーさんにとっては大したことない数字かもしれないけど、自分が書かなければその200人はほしい情報が手に入らなかったかもしれない。

 

そう思うと、自分独自の目線で情報をまとめたり、思ったこと書いたりするのってやりがいあるなあって思ったのです。

 

おわりに

創作活動については、多分ちょっと事情が違う。まずは取り扱いたいテーマについて他のものを参考にせず、とにかく突き詰めてみよう。他人のを参考にするのはその後。一度他人の頭で考えられたものに触れてしまったら、もうその考え方に沿ってしかモノを考えられなくなる。この辺は稿を改めて書きたい。

 

とにかく、この考え方をするようになったのは、ゼミの先生(卒論の指導教官)のおかげだから、本当に感謝したいです。ありがとうございました!

 

 

*1:わたしたちはこのような、ロゴスの仲介による知の共有過程を、学と名づけることができるであろう。そしてさらに区別すれば、初めに知をもっていて、これをロゴスの仲介にゆだねるほうが、教えるのであり、まずロゴスを聞いて、それから知をもつようになるのが学びであるということができるであろう。

田中美知太郎『哲学初歩』143頁、岩波現代文庫、2007年。

*2:特に73-108頁